【考察】山の水から、「何かを制限される、人の心理」を学ぶ

 

持って行ける水の量は限りがある。
夏山の岩稜では、水の確保は計画段階でかなり厳密に盛り込んでおかなければ大変なことになる。しかも、稜線にある山小屋では雪渓を利用してポリタンクに貯めているせいか、臭いがきつくそのまま飲むには抵抗感がある。一方、谷沿いにある山小屋は、沢の水を利用できるので豊富である。ただ、ミネラル成分によってお腹が緩くなる。僕個人的な経験だが、八ヶ岳の水を飲んでしまうとお腹が緩くなって日頃の便秘は解消になる。

冬山は、水の確保は「雪」を解かせばいい。しかも、空から降った水なのでミネラルはあまりない。ただ、埃り、黄砂やPM2.5等の公害成分は浄化されていないので地域によって濃度が変わる(といっても気にすれば登山はできない)。沸かし方には工夫が必要だが「高効率のコッヘル(JetBoil等)」があればガスボンベ250g一つで「一人あたり3日分」である。もちろん、テント内で贅沢すればもっと早くなくなる。水の確保はガスボンベの量と比例するから制限を受ける。

話しはそれるが、
谷川岳連峰の南側の尾根は雪に結構ゴミが入る。人が多いからか?、関東平野に近いからか?、わからないが、谷川岳の雪を溶かして飲むのは少し抵抗感を持つようになってきた。一方、群馬から新潟県の稜線沿いに出ると、雪が綺麗でそのまま沸かしても綺麗な水であった。さすが魚沼米を支えている水だけか、汚れていない。先日かき氷にして砂糖をかけて食べたら今まで食べたことがないほど旨かった。不思議なことだが、残雪を掘ってみても筋状の層が現れない。雪が降った時期や雨の状況で断層のような筋(黒い筋)があると思ったのだが、スコップで雪渓を掘っていっても綺麗なザラメ状の雪が出てくるだけで、とても綺麗だった。よくわからないが、越後の豪雪環境が関係しているような気がする。また、それが新潟の生活を支えていると思うと、山の水の状態で平地での環境を理解できるかもしれない。

いずれにせよ、
日本で水の有難さを考える機会は少ないが、山に入ると水は最優先課題の一つで有難さを再認識できる。チームで動く場合、勝手にリーダーが水を決める場合があるが、本来水体力は個人差が大きいから、他人が勝手に決めるのも問題がある。いつでも飲める下界では水体力のない人を気遣うことはないが、山ではしっかり廻りの仲間が気遣ってあげたいものだ。

つまり、「日常の当たり前の価値観」で山に入ると、他人に対する「気遣い」ができなくなる。「なぜ、そんなに水を飲むのか?」とチームメンバーに言い出す人もいる。山の水は貴重だから、仲間に水を飲むのを制限しようとする。確かに、表面的に見れば、それは正しいように思える。しかし、個人には個性がある。チーム個人の水体力を把握してておく必要があるのだが、それを怠るチームリーダーにはそれを理解できない。そうすると、メンバーに対して「なぜ、そんなに水を飲むのか?」となり、チームメンバーは我慢するようになり、結果、弱い人間が脱水症状などを引き起こす。

・日常の当たり前なことは何か
・当たり前だから陥る認識
・各メンバーの差を考慮した計画
など考えておく必要がある。

これは普段の生活でも起こる。日常、入手が当たり前だと思っていることが、突然できなくなると人は他人を非難する。特に、社会的リーダーの方がその傾向が高い。それは「制限」が出るから、各メンバーに分配する必要がある、と考えるからである。ところが、その分配には個人差は考慮されていない。よって、弱い人が犠牲になってしまうことになる。
具体的な例は、3.11の計画的な電力停止である。電力という当たり前なことを制限を受けると人々は、”致し方ない”として「計画停電」を受け入れる。一律に地域ごとを決め時間によって電力をシャットダウンさせる。しかし、それによって病院など生命維持に電力が必要な人達は大きく影響を受けたことは記憶に新しい。地域ごとの個性など考慮されない。

制限から生じる人々の心理を、リーダー若しくは他のメンバーが十分理解しておく必要があるのだが、それを怠ってしまうとそのチームは危険極まりないだろう。