GWの立山・雷鳥沢キャンプ場のゴミ問題についての記事があった。確かに、悪質なのかマナー違反なのか、わからないが、しかし、「法的規制」などを持ち出しルールを押し付けることもまた行き過ぎのように思える。マナー違反をした人達が悪者で、それを掲載する人は善人なのか?。人間は自ら間違っていないと思うと他人への要求が酷くなる。だから、この手の記事が真実を語っているのかどうか、読み手はしっかり分析しておく必要がある。
よって、もう少し深入りして、こういう問題を聊か違う視点から眺めてみる。
日本人の多くは、陰徳を好む。
陰徳ができる精神には必ず「どこかに神様が観ている」「どこかに神様が宿っている」という考え方が基本である。山を歩けば、山の神様がいるように思えるのは日本人の特有だと思う。そうやって、山の神様に怒られないようにしていれば、遭難しても助けてくれると考える。
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大きな金額的寄付は日本人にとって難しいが、モノの中にある「神様」を大切にすることで金額的寄付に以上の持続可能な社会を構築しようとする。
先日、乾徳山の下山時ご一緒した男性がいる。
よく見ると彼の右手には袋があり、その中にゴミがあった。どうも登山道で見つけたゴミを持って帰るとのことで、「きちんと拾うと、何かあれば山に助けてくれそうで」とお話しがあった。
それを聞いて、ふと、「立山・雷鳥沢キャンプ場のゴミ問題」を思い出した。
一方は大々的に掲載して、あたかもマナー違反者を悪人のように仕立てて、ルールを守らせるようにする。他方、彼のように「陰徳」をして、ゴミを捨てた人を非難せず、目の前のゴミを拾う。
どちらが良いかどうかを話しているわけではない。
(1.)雷鳥沢キャンプ場のゴミ問題について記事は社会規範性に基づいている。
(2.)乾徳山の彼は仏教的精神に基づいている。
ということである。
しかし、(1.)は最終的に「人」を責めることになる。それもその人のことを理解せずに「ゴミを出すな」と、その人を責める。その人がゴミを残せば「なぜ、ゴミを残してしまったのか?」を理解せずに、相手を非難する。確かに、酷いマナー違反の登山者もいるが、大半は過失である。
例えば、岩稜でペットボトルを落とす。テント場の横についおいてしまったナイロン袋が降雪の為埋もれてしまって探すことができない。強風でゴミを入れた袋を飛ばす、何とか回収しようと試みるが、滑落の危険性や雪の状況から断念しざるえない。酷い下痢になってしまう・・・。
そんなこと、登山者で経験していない人などいないはず。
一方、乾徳山の彼は、とにかく、自分にできる登山道にあるゴミを拾う。決して、他を責めるわけではなく「何かあれば山が助けてくれる」という日本人らしい精神で自ら行動をする。
良い悪いを言っているわけではない。いや、本来どちらも必要なことだろうと思う。
しかし、乾徳山の彼の行動は私に大きく気づかせてくれたのは事実である。時に陰徳の行動は日本人にはグッとくる。彼のおかげで僕もそれ以来少しでもゴミを拾うようになってきている。
自分も時に山に対して小さいながら過失がある。やはり、自分を戒める意味においても目の前のゴミを少しだけでも持って帰りたいものだ。
乾徳山の彼には感謝している。