【考察】山で「ウケる恋愛」を思い出す

登山や仕事をしている時、つい考えてしまうのが「ウケる」ことです。友人と仕事を通じて楽しめるひとつの方法に「ウケる」ことがあります。やはり「ウケている人」はどことなく人気があるものです。大阪人にとって、「面白い、中辻さん」「ウケる、中辻さん」と言われるのが、最高の褒め言葉です。ですから、学生の頃など、女性に「ウケる」など言われたものなら、褒められたと思って、ちょっぴり好意を抱くのです。単純なものです。

「ウケる~、中辻くん」と言われて始まった恋は、高校生の頃です。大阪のある駅チカにあった八百屋でアルバイトしていたとき、2歳下の方です。ただ、この頃の「ウケる」は「可笑しな行動」でした。コミュニケーション力はまだまだ身についていませんから「みかんの早食い」「段ボールの超スピード分解」など行動や見た目で可笑しさをアピールしてしまいます。ただ行き過ぎてデートで行った京都・嵐山でお猿さんにちょっかいを出してしまい、お猿さんに「ウキャー」と怒られ怪我をしてしまいました。公園の救護室で手当てを受け情けなく帰ってきたのを覚えています。また、そんなことばかりに気が取られて、彼女を気遣う余裕もありませんでした。
やはり、これでは、私にとって楽しい時間も女性にとっては魅力を感じなくなってくるものです。高校生とはいえ、男性に求めるのは「可笑しな行動」ではありませんから。

高校生の淡い恋も終わりを告げ、「ウケる」根本的な見直しを迫られました。もちろん、女性目線からすれば「そうじゃないだろう」というご指摘があるかと思いますが、大阪の泉州地域では「ウケる」ことに強迫的成長を求められます。

大学生の頃はモトクロス・バイクを乗って日本中走っていました。この頃から放浪癖が始まります。旅行に行くと思いがけない出会いがあるものです。大阪から北海道に出るには、京都の舞鶴からフェリーで小樽に向かうのが一般的でした。当時は大部屋・雑魚寝の部屋で30時間過ごしますが、男女同じです。
偶然近くにいた女性が、楽しそうに話しを掛けてくれました。北海道バイクという共通の話題ですから、話が盛り上がります。この時の「ウケる」は「共通の価値観を利用」したものです。例えば、「礼文島のユースホステルのテンションが凄く、僕は去年そこでリーダーになった」「そうそう知っている、私もリーダーになった」と面白さを共有するのです。「ウケる」には何かを共有する環境が必要だと分かった時期です。2週間後、この女性とは帰りのフェリーでも偶然一緒でした。お互い懐かしさが芽生え、その後、バイクでデートしたりしました。

そんなちょっと大人になった恋も終わりを告げます。共有の情報で「ウケる」には限界があるからです。相手に共通を求めてしまうとお互い息苦しくなるのです。またもや、「ウケる」根本的な見直しを迫られました。

就職後、東京に出てきます。
これで「大阪人」としての「ウケる」が大変な時期に突入します。面白さがなかなか通じませんし、「ウケる」ネタに極めて慎重な配慮が必要になってきます。仕事を通じて「ウケる」場合は、これまた「共有の環境を利用」しますが、それ以上に「相手の理解」と「配慮」が必要になってきます。例えば、「私、交渉能力がないの」と言われた場合、僕は「15年前交渉現場で相手に灰皿を投げられたこと」を話します。筋肉モリモリのオジサンと交渉をしている間に灰皿投げられるのです。一見怖いのですが、それを「ウケる」ように話します。そうして、「私、交渉能力がないの」という女性に「交渉とはそんなのでいいのか」と思ってもらいます。相手の成長・理解を促すような「ウケる」配慮が必要になってきます。

まぁ~結果的に他の理由もあって結婚していないので(もう結婚に全く興味がない)、本当は「ウケる」根本的な見直しが必要かもしれません。しかし、相手の成長・理解を促すような「ウケる」配慮はとんでもなく大変なのです。それが最近できず、正直「ウケる」にやや陰りが出てきています(笑)

単純に「ウケっている」ことでも、かなりの配慮が必要な時代です。よく売れているお笑い芸能人も当然極めて優れた配慮の下で行っているのでしょう、そんな大変さがよく分かります。しかし、それを自分が楽しめないと他人を「ウケさせる」こともできないのでしょう。さらに、欲を言えば、「信頼」できる相手との「ウケる」話は、より強固な関係に発展していくはずです。

まだまだ改善は続きます。

【考察】名著「失敗の本質」から自分のクライミングを正す!


クライミング・ジムで「おぃ、あなた達、怪我するわよ」と上から目線で女性に言われたことがある。
僕は5.10c程度のリードしかできない弱いクライマーだから、ゆっくり登っていると、それを危険と思ったのかもしれない。何が怪我をする行為なのか、しっかり指摘してくれれば反省の余地があるが、それ以上、彼女は何も言わなかった。凄い女性クライマーだと思って眺めてみると、確かに、ボルダリングの動きは良い。

ところが、彼女がボルダリングからリードに変え、準備を眺めているとエイトノットは捻じれて美しくない。しかも、登攀前のビレイヤ―とのチェック事項を怠っている(僕のチームは常に電車の車掌のように「指差し確認」を強く推奨している)。まぁ、お互い慣れた仲間なのかと思っていたら、彼女がビレイヤに向かって、ロープの繰り出しが悪い、と怒っている。コミュニケーションを適切におこなっていない。

観てられないな、と不快に思ったので、その日はトレーニングを辞め帰宅した。気分が悪い状態での山登りや登攀はしないことにしている。

ビジネスの社会で有名な名著「失敗の本質」という野中先生らの本がある(随分昔に読んだ)。その中まで、まず「目的を明確にして、それを共有する」ことが如何に大切か、語っている。冒頭の女性の目的は「グレード」であることは明確だ。グレードである以上、登れないクライマーは価値がないと思うのは致し方ない。若しくは、グレードが高いと安全だと勘違いしているのかもしれない。

一方、僕がリーダの場合、目的は「潜在的な危険を察知し安全な判断をして、適切に下山し終える(多少の怪我は致し方ない)」ことである。そのために、ロープワークの研究や組織論、救助救命技術、気象学、読図等が必要になってくる。グレードは少し楽しめる程度で良いと思っている。もちろん、その「少し楽しめる」為には多くの安全判断が必要になってくるのだが。

つまり、
・グレードの大小
・安全判断の大小
いずれかを目的にしているのかの違いである。

いずれにせよ、何が評価基準なのか、チームで適切に合わせておくことは大切であろう。また、逆にリーダーを選ぶ場合、その人が「どのような目的や評価基準」かどうか総合的に見極めておく必要はある。グレードの高さを目的にする人もいるから、そういう人は、とにかく、登りたい、と思っているリーダー/仲間を観つければ良い。

次に、「制限・限界」を知ることの大切さ、である。
それが出来ず日本軍があり得ない程戦線を広げてしまった。同じように制限や限界を知らないと「撤退のチャンスを逃がして、もっともっともと山に向かう」とどうなるか分かる。 そのもっともっとを適切に判断できるためには「制限や限界」を知って、よくコミュニケーションを取っておくことである。
例えば、クライミングの登攀数を8本程度登ると大きく疲れてしまうのなら、その前で登攀を終える必要があることは容易に分かる。だから、最大8本程度というような数字でしっかり仲間を共有しておく必要がある。山登りの場合、「○○時間までに○○峠まで着かなければ撤退」なども「制限・限界」を重視した判断である。

また、「制限・限界」を共有できなければ無限の要求をされてしまう。お前たちもっと登れるだろう!と無責任なリーダーから言われることになる。ブラック企業が長時間残業を強要させるのは、働く人に対する「制限・限界」を知らないからである。

よって、チームの「制限・限界」から思考を広げていく必要がある。

最後に、自己解決・成長できるチーム作りである。
チームとして「PDCA」を回す必要があるからである。実際の山登りや登攀をすると今まで経験しなかったことが起きる。その時、一人の判断ではなく、チームで判断し、その後、チームとして学習していく必要がある。個人が学んでもチームが学ばなければ安全を担保できない。学習していくプロセスを維持するには、もちろん、意見を言える環境と長期的人間的関係は必要である。

1.自分達チームはどうなれば成功なのか? それをしっかし共有しておく必要がある。
2.自分達チームの限界や制約事項を分析し共有しておく。
3.自分達チームがお互い話し合い、問題解決できるような長期的人間的関係作り。

は、しっかり意識したいものだ。

 

 

【参考文献】
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫) ,野中 郁次郎 (著) ら.

【考察】山から学ぶ「コミュニケーションのズレ」

コミュニケーションは「ズレ」て当たり前である。個々個人は生い立ちも価値観も違うのだから、どんなに話し合っても他人との理解にズレが生じる。発信者が「常識だろう」と思っていても、受け手は常識と思っていないことが多い。そうすると、発信者は不快になってしまい感情的になる人も多々いる。

私の主観だが、特に、日本の古き男性がその傾向が強い。だから、不快になると言語量が徐々に少なってくる。そして、その傾向で脳が鍛えられないので、さらに、言語能力が低下する。はじめは不快だから話さなかった行動が、本当に話せない人間になってしまう。

こんな状態で山に一緒に入るのはとんでもなく危険になってくる。もし、コミュニケーションを疎かにしているのなら、ソロで山登りした方が安全になってくる。「大人だから分かるだろう」というのは、コミュニケーションを単に怠っているだけである(大人とは何かを問えばいい)。やはり、良く喋ってよく笑って、そして、そうやって話し合うことを大切にしているチームは比較的安全であろう。

具体的な経験がある。
以前、冬・八ヶ岳の南沢大滝でソロでアイスクライミングをしている時、別の3人のチームが隣にいた。そのうちの一人がリードで登った後、ビレイヤが誤って「ビレイ解除」と聞こえたと思い、ビレイを解除してしまった。そうしたら、リーダーがロアダウンでロープにテンションを掛けた途端、墜落しそうになった。的確に判断したもう一人の男性がロープを持ち、手で力いっぱい握り占め、何とか、大事故にならなく済んだ(本来、リード者がロアダウンするから絶対解除をするな、と念を押していれば問題はなかった)。

こういうことは山ではよく起こる。パートナーとのコミュニケーションのズレが事前にあるのならば、それを解消しておく必要がある。しかし、これを怠って、事故が起こってから相手が悪い、など言い出す登山者も存在する。

根本的な原因は、「相手が誤解している」ということを前提にしているかどうかだ。誤解があるのだから、自分が発信したことが伝わっているかどうか「チェック」し「埋め合わせる作業」が必ず必要だ!と思うはずである。

通常のビジネスであれば経済的損失や契約履行違反は起こるが命まで取られない。結婚生活であっても、離婚や扶養上の責任は問われるが、これも命まで取られない。しかし、山登りでは命を落とす可能性が高くなるから、本来趣味レベルの登山者でも日常生活・仕事以上のコミュニケーション能力が必要なのである。

つまり、対策として

1.「他人とのズレ」は絶対存在することを前提にする
2.「他人とのズレ」に気付いても不快に思わない
3.「他人とのズレ」をチェックし、埋め合わせる作業は必ず必要
と考えることであろう。

もちろん、現実的に、山では疲れが「コミュニケーションのズレ」を助長するケースがある。コミュニケーションのズレを埋め合わせる作業は、かなり、エネルギーが必要なことだから疎かになってしまう。出発前、少しでもコミュニケーションを埋め合わせるような取り組みをしておきたいものだ。

 

【考察】山のゴミ問題から観る日本の仏教精神

GWの立山・雷鳥沢キャンプ場のゴミ問題についての記事があった。確かに、悪質なのかマナー違反なのか、わからないが、しかし、「法的規制」などを持ち出しルールを押し付けることもまた行き過ぎのように思える。マナー違反をした人達が悪者で、それを掲載する人は善人なのか?。人間は自ら間違っていないと思うと他人への要求が酷くなる。だから、この手の記事が真実を語っているのかどうか、読み手はしっかり分析しておく必要がある。

よって、もう少し深入りして、こういう問題を聊か違う視点から眺めてみる。

日本人の多くは、陰徳を好む。
陰徳ができる精神には必ず「どこかに神様が観ている」「どこかに神様が宿っている」という考え方が基本である。山を歩けば、山の神様がいるように思えるのは日本人の特有だと思う。そうやって、山の神様に怒られないようにしていれば、遭難しても助けてくれると考える。

大きな金額的寄付は日本人にとって難しいが、モノの中にある「神様」を大切にすることで金額的寄付に以上の持続可能な社会を構築しようとする。

先日、乾徳山の下山時ご一緒した男性がいる。
よく見ると彼の右手には袋があり、その中にゴミがあった。どうも登山道で見つけたゴミを持って帰るとのことで、「きちんと拾うと、何かあれば山に助けてくれそうで」とお話しがあった。
それを聞いて、ふと、「立山・雷鳥沢キャンプ場のゴミ問題」を思い出した。
一方は大々的に掲載して、あたかもマナー違反者を悪人のように仕立てて、ルールを守らせるようにする。他方、彼のように「陰徳」をして、ゴミを捨てた人を非難せず、目の前のゴミを拾う。

どちらが良いかどうかを話しているわけではない。

(1.)雷鳥沢キャンプ場のゴミ問題について記事は社会規範性に基づいている。
(2.)乾徳山の彼は仏教的精神に基づいている。

ということである。
しかし、(1.)は最終的に「人」を責めることになる。それもその人のことを理解せずに「ゴミを出すな」と、その人を責める。その人がゴミを残せば「なぜ、ゴミを残してしまったのか?」を理解せずに、相手を非難する。確かに、酷いマナー違反の登山者もいるが、大半は過失である。

例えば、岩稜でペットボトルを落とす。テント場の横についおいてしまったナイロン袋が降雪の為埋もれてしまって探すことができない。強風でゴミを入れた袋を飛ばす、何とか回収しようと試みるが、滑落の危険性や雪の状況から断念しざるえない。酷い下痢になってしまう・・・。

そんなこと、登山者で経験していない人などいないはず。

一方、乾徳山の彼は、とにかく、自分にできる登山道にあるゴミを拾う。決して、他を責めるわけではなく「何かあれば山が助けてくれる」という日本人らしい精神で自ら行動をする。

良い悪いを言っているわけではない。いや、本来どちらも必要なことだろうと思う。
しかし、乾徳山の彼の行動は私に大きく気づかせてくれたのは事実である。時に陰徳の行動は日本人にはグッとくる。彼のおかげで僕もそれ以来少しでもゴミを拾うようになってきている。

自分も時に山に対して小さいながら過失がある。やはり、自分を戒める意味においても目の前のゴミを少しだけでも持って帰りたいものだ。

乾徳山の彼には感謝している。

【考察】登山も仕事も、人生100年から眺めておく。

人生100年というが・・・。
(まだ、「ライフ・シフト 100年時代の人生戦略」を読んでいない)

人間の行動には「フロー(流れ)」「ストック(資産)」の2つがあると思っている。これは財務会計でいうP/L、B/Sの考えから来たものだ。例えば、1日10kmをランニングする、という行動は単純なフローである。しかし、それによって、どのような資産を形成しているのか、を常に考えておく。
具体的に言えば、「1日10kmをランニング」をすれば「アクティブな性格を得られる」という具合である。
勉強も単純に読書をするだけながら、それはフローである。ストックとして捉えるのなら、その読書から「資格・学位獲得」となればそれはストックである。若しくは「専門性の権威獲得」でもいい。

登山も同じである。単純に山に登っているだけなら、それを単純なフロー的発想である。そこから「身体的魅力度の形成」「友人関係の形成」「リーダーシップの形成」など考えているなら、それはストック的発想になる。そして、そのフローとストックをどのように結びつけるかは、個々個人が考えるべきことである。

もちろん、このストックには、無形資産・有形資産もある。有形資産にはお金もあるだろう、無形資産には、仕事のスキルや資格等含まれる。

つまり、自分の行動によって「フロー⇔ストックの関係」を自ら見出すこと、それが自らの価値創造に繋がっていく。

「フロー⇔ストックの関係」を明確にするためには、まず「将来を想像」しておく必要がある。その想像は間違っててもいいと思うし正確に把握できるわけがない。しかし、自分なりに将来を予測しておく。

例えば、60歳に定年になって最も重要なことは何か?
・友人の多さ?
・お金?
・???

しかし、父親を観てよくわかるのだが72歳になっても働いている。12年間働けるということはどれだけの貯金に匹敵するのか計算すればよい。友人も同じで、働くことを通じて多くの人と出会っている。その中でよい友人が増えていく。
つまり、働くこと、働けることが何よりも大切なことであることがわかる。

その基本はまず健康である。健康を壊す、ということは実はかなり想像しぬくい。タバコを辞めれない人が多いのは健康が悪化するとどれだけ辛いことが想像できないからだ。健康を維持するとは知的想像力の範疇である。よって、最近は健康に関する情報から可能な限り健康を維持しようと努力している。

一方、そのうえで、働こうとするためには「自分は何者か?」ということを他者が認識できるまで持ってこれるようにしておく必要がある。それは何でもいい「自分⇒クライミング?」「自分⇒応用数学者?」などである。これは日頃の仕事でちょっとだけ意識すれば形成できるはずである。もちろん、20代の人たちにキャリア形成に気付くまで時間がかかる。しかし、気づいてからでいい、少しづつ形成できる何かを観つけていけばいい。

僕はシンプルだ。

1.健康第一
2.”少しづつ大きくできる”キャリア形成

それを大切にしている。だから、僕の健康を害するような人と付き合わない。例えば、ストレスを掛ける人や深夜の飲みを強制する人など、人間関係が壊れても主義主張をして断る。

キャリア形成は単一的ではいけない。例えば、ファイナンスのプロ、になりたい、と言っても意味がない。結局、そのようなスキルがあってもコミュニケーション力・文章力・人間的魅力がなければ人を動かすことができないから、キャリア形成とはとても言えない。つまり、キャリア形成とは総合的に高めて行く必要がある。それはこつこつ小さいことを続けていくことが大切だと思っている。また、嫌々している仕事(フロー)でも自らのストックとどう結びつくのか、それを考えるだけでも何らかの形成することは存在する。

休日の登山はどのようなフローでストックを形成していけるのか、平日の仕事はどのようなフローでストックを形成できるのか、それを常に考え、修正して、また、考えていく、そんな風に最近思っている。ゴールは何かわからない、いや、ゴールなど存在しない、それを観つけようと思っていけない。

自分を大実験しているようなものだが、定年以降また働けるようにしたいものだ。

 

 

【参考文献】
「不安な個人、立ちすくむ国家」次官・若手プロジェクト
http://www.meti.go.jp/commi…/summary/eic0009/…/020_02_00.pdf

【考察】クライミング・ジムの儲かる仕組みを考える

クライミング・ジムの儲かる仕組みを考える。
通常、サービス業のビジネスモデルは、カフェや居酒屋同様、

・客席回転率を上げる
・店内の商品を購入できるようにする。
・単価の高いサービスをする。
・昼と夜(時間帯)で異なるサービスをする。

である。

ところが、クライミングは顧客が2時間以上いることが普通で客席回転率を上げにくい。また、壁を同時に登ることができないので、1面1名の規制があり、そうすると、室内全体としての最大顧客数に厳格な制限がある。また、経費はほぼ固定費である(*1)

一方、オリンピックでスポーツクライミングが選ばれているのと、一人でも遊べるので今の若者に合ったスポーツであるが、しかし、競争状態は激化し、オリンピック後は減速することは容易に理解できる(*2)

すなわち、
(*1)は内部環境上の課題、
(*2)は外部環境上の課題、
ということになる。

それではいこう!
まず、すべきことは、計数情報(KPI)を収集することから始める。

1.顧客の属性と分類
2.時間毎の顧客数
3.顧客一人当たりの滞在時間
4.顧客一人当たりの月訪問回数
5.売上などは容易に管理されているとする。

また、顧客アンケート(口頭で質問する内容を決めておく)をしっかり記録しておく。

1.本日の混み具合はいかがでしたか?等
2.その他必要な質問

特に、顧客が不満を抱く「最大顧客数」を推定しておく。

次に、この「最大顧客数」を中心に思考を広げていく必要がある。

・1Dayで利用する顧客が増えると「最大顧客数」で収益が頭打ちになる。
・1mon/1yearで利用する人が増えても「最大顧客数」で収益が頭打ちにならない。

という事実がわかるから「1Day ⇒ 1mon/1year利用への移転仕組みを作り出す」必要がある。

一方、室内で消費する商品を置いておくと、顧客単価が増加する。例えば、クライミング・ツール、スタバ等のコーヒー、デザート、果物などである。今まで休憩時間にコンビニ行く顧客が多いはずで、それらを内部留保する移転仕組みは必要である。

さらに、多様な価格帯を設定して付加価値を提供する必要がある。容易に考えられるのは、有名○○○者在住とかであるが、実はこれはあまり付加価値の提供にならない。それよりも「当ジムではより次へのステップへ進むことができる」というストーリがある方が人は価値を見出す。例えば、本ジムの特別会員の人(年間費****円)は、「室内ボルダリング⇒外岩ボルダリング⇒リードクライミング⇒アルパインクライミング」のような進化するマイルストーン(年間スケジュール)を描けるようにしておく。特別会員は「外岩へいくとき、無料マットの貸し出し等」も有効である。

■オープンソース化
顧客同士で繋がり合うと、自動的に付加価値を高めてくれる可能性がある。例えば、○○○さんと一緒に居ればグレードが上がる、外岩に行ける等、そもそもジムでは提供できないことも顧客同士で高めていくことになる。これは意外良い競争優位性に繋がっていく。

ところで、普通に考えると、「セッターのコンセプトの良さ」や「コンペ大会」も大切であろうが、どこのジムもやっているので差別化要因ではないと思っている。つまり、本当に収益に繋がるのかどうか、上記「KPI」を確認しながら、その有効性を図っておく必要があるだろう。

まとめよう!

1.顧客が不満にならない最大顧客数を高める方法を考える
(時間の平滑化・分散、1Day利用者の時間制限)
2.1Day ⇒ 1mon/1year利用への移転仕組みを作り出す。
3.室内で消費する商品、利用する商品を販売する(食べ物等)
4.1Day/1monだけではなく特別会員のような価格帯を設定して、
付加価値を提供する(特別会員様向けスキルアップする年間ストーリ)
5.顧客同士の繋がり合いを促進して付加価値を生み出させる。
6.それらを下支えをする計数管理をしっかりしてPDCAを回す。

以上。

【考察】山の水から、「何かを制限される、人の心理」を学ぶ

 

持って行ける水の量は限りがある。
夏山の岩稜では、水の確保は計画段階でかなり厳密に盛り込んでおかなければ大変なことになる。しかも、稜線にある山小屋では雪渓を利用してポリタンクに貯めているせいか、臭いがきつくそのまま飲むには抵抗感がある。一方、谷沿いにある山小屋は、沢の水を利用できるので豊富である。ただ、ミネラル成分によってお腹が緩くなる。僕個人的な経験だが、八ヶ岳の水を飲んでしまうとお腹が緩くなって日頃の便秘は解消になる。

冬山は、水の確保は「雪」を解かせばいい。しかも、空から降った水なのでミネラルはあまりない。ただ、埃り、黄砂やPM2.5等の公害成分は浄化されていないので地域によって濃度が変わる(といっても気にすれば登山はできない)。沸かし方には工夫が必要だが「高効率のコッヘル(JetBoil等)」があればガスボンベ250g一つで「一人あたり3日分」である。もちろん、テント内で贅沢すればもっと早くなくなる。水の確保はガスボンベの量と比例するから制限を受ける。

話しはそれるが、
谷川岳連峰の南側の尾根は雪に結構ゴミが入る。人が多いからか?、関東平野に近いからか?、わからないが、谷川岳の雪を溶かして飲むのは少し抵抗感を持つようになってきた。一方、群馬から新潟県の稜線沿いに出ると、雪が綺麗でそのまま沸かしても綺麗な水であった。さすが魚沼米を支えている水だけか、汚れていない。先日かき氷にして砂糖をかけて食べたら今まで食べたことがないほど旨かった。不思議なことだが、残雪を掘ってみても筋状の層が現れない。雪が降った時期や雨の状況で断層のような筋(黒い筋)があると思ったのだが、スコップで雪渓を掘っていっても綺麗なザラメ状の雪が出てくるだけで、とても綺麗だった。よくわからないが、越後の豪雪環境が関係しているような気がする。また、それが新潟の生活を支えていると思うと、山の水の状態で平地での環境を理解できるかもしれない。

いずれにせよ、
日本で水の有難さを考える機会は少ないが、山に入ると水は最優先課題の一つで有難さを再認識できる。チームで動く場合、勝手にリーダーが水を決める場合があるが、本来水体力は個人差が大きいから、他人が勝手に決めるのも問題がある。いつでも飲める下界では水体力のない人を気遣うことはないが、山ではしっかり廻りの仲間が気遣ってあげたいものだ。

つまり、「日常の当たり前の価値観」で山に入ると、他人に対する「気遣い」ができなくなる。「なぜ、そんなに水を飲むのか?」とチームメンバーに言い出す人もいる。山の水は貴重だから、仲間に水を飲むのを制限しようとする。確かに、表面的に見れば、それは正しいように思える。しかし、個人には個性がある。チーム個人の水体力を把握してておく必要があるのだが、それを怠るチームリーダーにはそれを理解できない。そうすると、メンバーに対して「なぜ、そんなに水を飲むのか?」となり、チームメンバーは我慢するようになり、結果、弱い人間が脱水症状などを引き起こす。

・日常の当たり前なことは何か
・当たり前だから陥る認識
・各メンバーの差を考慮した計画
など考えておく必要がある。

これは普段の生活でも起こる。日常、入手が当たり前だと思っていることが、突然できなくなると人は他人を非難する。特に、社会的リーダーの方がその傾向が高い。それは「制限」が出るから、各メンバーに分配する必要がある、と考えるからである。ところが、その分配には個人差は考慮されていない。よって、弱い人が犠牲になってしまうことになる。
具体的な例は、3.11の計画的な電力停止である。電力という当たり前なことを制限を受けると人々は、”致し方ない”として「計画停電」を受け入れる。一律に地域ごとを決め時間によって電力をシャットダウンさせる。しかし、それによって病院など生命維持に電力が必要な人達は大きく影響を受けたことは記憶に新しい。地域ごとの個性など考慮されない。

制限から生じる人々の心理を、リーダー若しくは他のメンバーが十分理解しておく必要があるのだが、それを怠ってしまうとそのチームは危険極まりないだろう。

【考察】諦めない、クライミング

人の身体は個性がある
僕が幾ら筋トレをしてもマッチョにはならないが、一方、優れてた身体の友人もいる。
僕が幾らストレッチをしても開脚は良くならないが、女性クライマーはストレッチで柔軟性が高まる人が多い。

体育系大学でクライミングの論文が増えているからインターネットでググって見ると良い。 ある論文(文末参考文献)に、「保持力(手で体を支えること)」と「クライミングのグレード」には相関があるという。
そうすると、指の身体的構造がクライミングの上達に影響する。

1.指、そのものの大きさ
2.関節の可動域
3.関節の物理的強さ
4.筋肉の構成、
5.疲労回復力
6.その他

そして、人が後天的に鍛えられるのは限られているから、自らの身体的個性を超えて動作をしてしまうと体は壊れるに決まっている。
身体が壊れてしまうと後遺症が残るケースが多い。

しかし、僕らは他人と自分を比較して「まだまだいける」と思う。他人から精神論を言われ「お前は根性がない」とか言われる。しかし、そうやって他人と比較して、上手いクライマーを真似ようとする。そうしているうちに、肩が壊れ、腰が壊れ、指が壊れる。クライマーに狭窄症などの怖い病気を起こす人もいる。そうすると日常生活もままならず、結果、クライミングどころではなく歩行すらできない人になる。

本質な原因は「他人と比較して、自らを失うこと」である。
本来自分の身体を感し、自分が現実的な目標を設定する必要があるのだが、しかし、他人と比較してもっと!もっと!と思うのは本当は危険なことだ。オリンピック・アスリートのように人生のある瞬間勝負する必要があるのなら多少自分の身体が壊れてもいいかもしれないが、僕らは、長期間、歳を重ねても遊べれるようにしなければならない。

短期間で上達しようとする誘惑に打ち勝って、自分の個性的身体を確認する、弱いことを認める。
そして、生涯継続的、長期的に遊べれるよう無理のない範囲で上達していくこと、それが本当のクライミングの上達方法なのではないか、と思っている。

他人に笑われてもいい、弱いクライマーで良い、それでも、自らを失わず・自らを信じて、こつこつ長期的に続けて改善していく。岩を感じて自然を感じて、小さなことに喜びを感じて、日々日々新鮮にする工夫をして、少しずつ進む、それしかない。

 

【参考文献】(参考文献は知的活動における敬意のため記載)
スポーツクライマーの手指筋群における筋力および筋持久力特性の評価法,西谷善子,川原 貴,山本正嘉.

【考察】異質のコミュニケーション

昨日クライミングの練習後、5kmほどランニングをして電車で帰宅をしたのだが、車内で定期券を無くしてしまった。

困ったな、と落ち込んでいる時に、突然ホームで、
「中辻さん、何しているんですか」
と声を掛けられた。

クライマーの○君で、僕はすぐにコミュニケーションが取れず反応が遅れてしまった。別に悪いことしていてたわけではない(笑)。しかし、○君から先に「僕、競馬に行ったんですよ」と言われて、うまく気遣ってくれた。そのあと、僕は定期を無くしたので改札口を出れず、そのまま別れた。ほんの一瞬の出来事だった。

しかし、たった一言声をかけてくれたおかげで、気分がよくなった。
人とは不思議なものだな、と思った。

最近、読書を少なくしている。
20年近く毎日のように本を読みあさってきたが、やはり「活字には限界」がある。
サラリーマンが読書をして、そして、毎日のように同質のサラリーマンと会っても、あまり有益ではないことを気づいた。つまり、独りよがりになって良い知的な活動ができない。それより、世代を超えて異質な遊びをした方が、ふとした時、大きな気づきを得ることができる。クライミングは20代-30代が多い、登山は年齢は総じて高い。どちらも人間に優劣があるわけではないから、対等な関係で良い。

先日、南魚沼で農家をしている登山者の70歳のおじさんと話し合ったことがある。僕が「山でのうんこエピソードの話(笑)」をしたら爆笑していたが、おかげで農家の苦労と越後周辺の山の情報を教えて貰った。もちろん、全く話が噛み合わないことも多いから、理解できないこともある。しかし、それでも数日後に「そういうことだったのか」と気づきがあるから異質なコミュニケーションとはそういうものかもしれない。

読書は必要ない、とは思えないが、やはり、行き過ぎるのもまたよくない。
少し外に出て山に登ったり海にいったり、キャンプにいったり、絵を書いたり、音楽を奏でたり、写真を撮ったり、して、国内外の全く異なるメンバーとコミュニケーションをとることで、今までの読書経験とあい混じって、良い気分になったり、創造的な活動ができたりするのではないか、と感じるようになってきている。

【考察】人は、なぜ備えや安全行動をとらないのか

 

備えや安全行動を怠る光景は、登山ではよく見かける。
この理由は、登山の先生からもよく聞いたが「自分だけは死なない」と思っているからだ。これを学問的に言えば、心理学でいう「正常性バイヤス」という認知の偏りから起こる。「正常性バイヤス」があると何か死に迫っている状況でも自分だけは安全だ、と思ってしまう。

やたらと楽観主義な人もいるが、それも「正常性バイヤス」が大きな役割を果たしている。つまり、正常性バイヤスはストレスを軽減する脳のメカニズムだ。しかし、危険な状況や災害ではこのバイヤスが命取るになる。

最近、私もこの「正常性バイヤス」に落ちいたと思うことがよくある。しかし、そのとき、無理矢理でも「最悪のシナリオ」を想像する。「この場所で滑落したら」「ここで嵐が来たら」・・・そうすれば、自分の「正常性バイヤス」が外れるようになる。聊かストレスになるのだが、それで何度か助かったケースはある。この話は僕と一緒に山に行く友人にも何度も話す。

甲斐駒の黒戸尾根の8合目付近でよく滑落事故が起こる。僕はよくロープを出して確保するのだが、多くの登山者はロープを出さずに通過する。富士山も冬になると暴風の中、支点構築ができないアイスクライミングをしている感じになるから、そんなところで転倒するとどうすることもできない。「最悪のシナリオ」を自分でイメージすると「怖くなり」それで尻尾を巻いて退散する。それを情けない、と嘆く人もいるが、僕はそうは思わない。尻尾を巻いて退散する姿はとても美しいと思っている。

平和が続くと、パワーを蓄えることができる。平和が有事へ繋がるのは、このパワーの為だ。パワーがあると人はそのパワーに守られていると感じてしまう。そして、平和が続くことで正常性バイヤスが掛かり、「最悪のシナリオ」をイメージできない。だから、災害用の備蓄もしないし準備も怠ることになる。有事の怖さもイメージできないので有事そのものの予防処置も怠る。

登山もやたらと体力をつけたり技術を付けたら、そのパワーがあると逆に「正常性バイヤス」で準備を怠る。同じことである。

これを防止するのは「最悪のシナリオ」を数個自分でイメージすることである。そうすると一旦「正常性バイヤス」が外れ少しばかりストレスフルになるが、しかし、それで改めて今置かれている世界を認識できる。そうすると自ずと必要なことを観えるはずである。

災害用の備蓄をしても何も損はしない。少しばかり日頃食べているものを増やしていればそれで賄える。お米を1袋多く買っておく等は可能である。それを「正常性バイヤス」に騙されず、しっかり備えておくこと、そういう心理があると知っておくこと、これが大切なのである。

 

【参考文献】(参考文献は知的活動における敬意のため記載)
広瀬 弘忠 『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』 集英社, 2004