『孫子』や四書五経の陰陽的発想

『孫子』や四書五経の陰陽的発想は、魅力を感じる。


クライミングで友人が怪我をしたとき、「身体動作的スキルがない」等の反省をするのだが、これは東洋的ではない。 普通、クライミングで「勝」とは、「ボルダリング四段を落とした」とか「ヨセミテのエルキャピタ・ノーズ」を登ったとか、そういう達成感だろう。しかし実は、そんな経験を繰り返していると何れ大きな怪我や身体を持ち崩すことになる。若いとつい、もっともっとと自分の体力やお金を使ってチャレンジしようとする。この達成感は厄介。

『孫子』は、戦うことは嫌って、真の意味で勝つことは何か、と考え抜いて考えている。戦いよりも国力を重視して、致し方なく戦いをしたとしても「負けない」ようにする。一時的な戦いは一時的には組織を奮起されることが可能だが、一方、戦いをせず継続的な国力を蓄えるというモチベーションを維持させるのは非常に難しい。

クライミングでも、 「ボルダリング四段を落とした」ということよりも、負けないように「怪我をしない」「継続してクライミング」をできる方が難しい。「ヨセミテのエルキャピタ・ノーズ」を登ることよりも、クライミングを自制し「財政基盤(仕事)」を構築、しっかり、自分のコスト管理をしていく方がはるかに難しい。

そういう基盤が無い状態で、借金までしてクライミングをして、仕事を辞めクライミングをして、怪我をしてクライミング/回復してクライミング、をして、を続けても、本当に意味での「勝」ではない。何れ、クライミングにも無責任になってしまう。(ただ、無暗な貯金を国力といっているわけではないので注意) クライミングの友人によく言っているのだが、クライミングを楽しみたいのなら「経済的基盤を作ること、自立すること」、そして「怪我を小さくすること」。そうやっていく社会的責任を負うことと遊ぶことの両輪がなければ、実は継続的に続かない。 電車で無責任な乗客に腹立たしく思うよりも、その場を離れて自分の安全を確保する。 高速道路で煽られても苛立たず、その車線から離れて安全に走行する。 そうやって相手を打ち負かすのではなく、「負」状態を作らないように行動をしていくこと、それが東洋的な発想ではないか、と思っている。





雪崩が多いような気がする

 雪崩が多いような気がする。

アメリカの研究機関によれば雪崩に巻き込まれたら50%の確率で助からない。ただ、15分以内で救助されれば、93%助かる。ここ50年間で5倍の犠牲者が出ている。 以前朝日岳付近の稜線で、10メートル位離れたところから全層的に崩れていく風景を見たとき、竜巻が来たかと思うほど強いエネルギーだった。 雪崩も温暖化の影響を受けているにちがいない。

PS
しかし、雪崩講習会がこんなにあるのに犠牲者が大きく減らないのは、違和感がある




仕事のことを考えるなんって可笑しくない?

 昔、登山中に、「仕事のことを考えるなんって可笑しくない」と言われたことがある。

普通の人から見れば、趣味と仕事は分離して「仕事は嫌なもの」と感じているかもしれない。 しかし、仕事をいい加減にして、趣味に没頭していることが正しいのか? やはり違う、誰でもそう思うはず。長期的に観れば、仕事も失い、結局趣味に没頭できる経済的余裕もなくなってくる。 

僕は、仕事は嫌いではない。仕事を通じてしか人は成長しない、と思っているから、仕事のことを考えるのは楽しい。「なぜ、その事業が上手くいかないのか」「管理会計の不備があるから、○○○の対応を提案しよう」などである。 それは、趣味の世界でも通用する。なぜ、女性の力でもアイスクライミングが上手く登れるのか? 天気の勉強していくと、なぜ冬山では地形によって風の方向がある程度決まっているのか、とか・・・。 – そうしていると、 登山中でも同じ前頭葉を使っているのだから、突然、仕事のことでも「○○○」の解決策があるのかもしれない、と思いつく。

 僕はいつも思うのは、「相互価値共有」である。 – 仕事-趣味の間で相互価値共有できることがある。 例えば、集団で登山をするならリーダーシップ力はビジネス社会より以上の高度なリーダーシップ力が必要となる場合がある。 ロープワークを思えるのはいいのだが、実際命に関わるのだから何度も練習し習得しようとする。そうすると何か学ぶことへのPDCAの回し方が上手くなってくる。そのセンスは仕事でも十分役立つ。 

一方、仕事での文章力やコミュニケーション力は、登山でも役立つ。仕事で受けた研修の学びは、仲間への気遣いに役立つ。 つまり「相互価値共有」を高めていけば、同時に自分自身の仕事に対する生産性が高まっていく。趣味と仕事を分離してしまうのはあまりにも惜しい。
ただ、そうやって考えると、パチンコやギャンブルの趣味はこの「相互価値共有」が小さいことが分かるから、あまり手を出すことはしない方がいいと思う。

いずれにせよ、 趣味と仕事は分離してしまうと、趣味も続かない。うまく「相互価値共有」をして趣味も仕事も成長していきたいもの。

プロのクライマーが騒ぎ立てているが・・・

なんだか、プロのクライマーが騒ぎ立てているが、 日本の岩に傷を着けたくらいでどんな罪になるのだろうか? そもそも、岩場の大部分は、地権者がおり、利用には許可がいる。 利用禁止となった岩場で無視して登るクライマーや、たばこを投げ 捨てるクライマーも多く見てきたが、そういうクライマーに対して もっと騒ぎ立てているべきであろう。

御岳などに行くと、喫煙者の煙で気分のよい森林浴も台無し・・・。 岩場付近の道路で歩いてタバコを吸ったなら、東京都青梅市の条例違反で確実に罪に問えるのに、ほとんど罪に問えないチッピングの方で騒ぎ立てる理由が 分からない。 結局のところ、自分たちが登る「課題」が変わることへの心情であ って、自分に降りかかって初めて、騒ぎ立てるプロクライマーに違和感を覚える。 天然記念物に傷を着ければ、罪を問えるが、しかし、そういう岩は クライミングはできない。

もし、普通の岩に傷を着けることに罪を問えるなら、そもそも、白 いチョークでペイントしていることは罪にならないのか? 本当の問題は、自分が正しい、と思うことである。 万が一、チッピング行為をしている人を見つけて、その人を悪人だ と思って暴言や暴力を起こさないか、心配している。



京王線のポスターで安全登山を思う

丹沢は、トレーニング場として、トータル70日以上は来ている。登山道からはずれたり、沢登をしたり、と大体わかった山と思っていた。 しかし、京王線のポスタを見て、なんだかわからない。何度も眺めて、ようやく、三角形の高いのは、大室、大室の右奥の山頂が不明瞭な山は鳥の胸、左手のコルは犬越と思うが、それでも、景色から現在地を推定するのは難しい。 道迷いはこんな感じで起こるようだ。







チャレンジ、とは結局どこから来るのか?

チャレンジ、とは結局どこから来るのか?

日頃から体力トレーニングして近場の岩場でクライミング等の練習して、それも怖いので、また、少し強度の高いトレーニングをする。
ところが、最近、僕がトレーニングだと思っていることが、他人からチャレンジだなぁ、と言ってくる人がいる。
一方、
そうではなく、年1回程度しか山登りをしていないのに、ジャンダルム(穂高周辺)に行きたがったり、北鎌へ行ったりする。
そういう人をチャレンジというのか、無謀というのかわからないが、生きて帰ってくればそれなりの収穫もあるだろう。

ビジネスで例えると、
前者が、ビジネススクールに行き、友人を見つけ、ビジネスプランを作り、簡単に小さなビジネスを試しながら、起業していくスタイル。
後者は、突発的に会社を辞め、急に転職やビジネスを興そうとするスタイル。

それぞれ特性を考えると、
前者は長期的な習得を条件とするから、真の情熱がなければならない。多くの余暇の時間を登山やクライミングに費やすだけの情熱。
後者は色々なことに時間を費やすから多様な考え方が必要だ。時に、余暇の大半を登山に使うのではなく、友人と飲みに行ったり、海に行ったり、温泉に行ったりすることも大切、と考えている。そういう人が気まぐれであるとき山に行きたい、と思うと、突発的に行くことになる。

デメリットは、
前者は学習を重視しているから、一歩前に進むことに恐怖を感じる。それを乗り越えればいいのだが、なかなか難しい。
後者は、死んでしまうリスクが高い。それですべての学びは消え去る。

つまり、チャレンジ、とは結局どこから来るのか?

前者の原動力は何と言っても学習欲だ。だから、山登りをしてわからないことに出会えば、すごく楽しい。別に、高尾山でも何か新しいことに気づけば、それで十分楽しい。
後者の原動力は体験欲だ。だから、どこに行ったのかが大切で難しいところに行きたがる。高尾山よりジャンダルムにはよい経験があると思っているから。

単に経験を積んでも意味がない

単に経験を積んでも意味がない。

なんでも山登りに例えてしまって恐縮だが、
山登りの歩き方の基本は、ゆっくり登る歩くことである。
数値的に言えば、心拍数110前後。

それ以上早く歩くと、
有酸素→無酸素運動になってしまい、グリコースを急速に消費する。そうすると疲労が溜り、筋肉/神経共々連動しにくくなる。
登山は下山をしないといけないから、登りに疲労を溜めるような歩き方をしていると下山時に困憊する。
事故を起こす人は、そうやって筋肉/神経共々連動性の欠如から起こることが大半である。連動性が悪いから、足首を捩じったり、転倒したり、する。

ところが、
ここで大きな心理的問題がある。

1.犬や猫のように、速く歩くことが優れている、
という心理
2.概ね登山開始時に登りだから、疲れておらずつ
い速く歩いてしまう心理

遅いやつを馬鹿にして、自分の感情のままに行動している人は、疲労が溜り、下山時に事故を起こす確率が高まる。しかも、心拍数も上がるから汗もかく。水分も必要で、荷物も多くなる。しかし、そういう知識がない人は、改善しようとしない。山に行くとまた遅いことが「悪」となって何度も繰り返す。数年前、友人に何度も指摘した。以前、下山時に骨折をして救助されたことは単なる偶然だと思っている。いずれ、また事故を起こすと思うから、もう彼に誘われても山に一緒にいかないようにしている。

一方、
トレーニングで自分が比較的安全だと思えるコースでは、少し試すといい。トレラン等で心拍数180位まで上げ、登る。2時間程度で標高差1000メートル位まで上がると足が笑い出す。それでも走ると、急速食べることもできなくなるほど疲労が溜まる。一度そうなると、食べ物を受けつけなくなる。食べ物を分解することにエネルギーを使う余裕がなくなるからである。これが悪循環の始まりで、下山時フラフラになってくる。冬山や少し難易度の高い本番であれば、こんなことになれば怖くて仕方がない。

もちろん、トレーニングでは心拍数180位まで上げたり/重たい荷物を持ったりして、体力面を向上させることは必要かもしれないが、しかし、本番ではそうならないようにコントロールする必要がある。

安全な範囲で経験をする → 過去他人が発見した知識を研究する → 自分が陥っている隠れた心理・価値観を見出す → 安全の範囲で自分で試してみる → より高い経験する。

ではないかと思っている。PDCAは「経験学習サイクル」という意味では良い表現だが、やはり、Pが最近気に入らない。Pで終わることが多いから。

【考察】アルパイン系の登山者に出会うとすぐに分かる

 

アルパイン系の登山者に出会うとすぐに分かる。
経験があればある人ほど、どういう訳か魅力的に思える。僕が登山者で同じ登山者だから「魅力的」と思うのではなく、登山をしない人でも魅力的に感じるはず。もちろん、男女問わない。

理由は「自信があるのか」と思ったが、アルパイン系の人達は間違いなく臆病で自分に自信がない。でも、一歩前を出しチャレンジすると「どのような価値」があるのか知っている。だから、準備も怠らず、危険なトラブルを想像しコンティンジェンシープランを用意しチャレンジする。それでも本チャンではあり得ないことが起こるが、それに対応するための判断力も日頃から訓練する。

自分の生死に関わるから、日頃の訓練を怠るわけにはいかない。怠けると怖い、という「恐怖心からのモチベーション」はかなりのエネルギーになる。

そして、チャレンジしたあと必ず反省したいものだが、反省自体難しいことも知っている。
登頂が成功ではないし下山時の失敗は死を意味する。失敗だ、と感じる状況に追い込まれてしまうと、それはもう死に近い。逆に、順調の登頂して何もなく帰ってくると反省する機会を失う。

反省をするためには程々の経験が必要だが、自然はそんな都合の良い教育者ではない。
だから、いつも想定外が起こることを幾度も想像して「あの時もう少し寒ければ、○○○の状況になっていた」「あの時、雪質が固ければ○○○の状況になっていた」と帰宅後、想像して反省するしかない。

そうしうことを繰り返しているうちに想定外への対処に動じなくなってくる。

普通、想定外のことが起これば不快に感じる。さらに、対応不可能だと思ってしまうと絶望感になる。例えば、仕事でトラブルでメンバーを怒るなどの感情になるのは、自分自身が不快になったから。よく後輩を育てるために怒る、などいう社会人がいるがそれは嘘で、自分の不快感を解消したい、というのが本当の理由だ。そして、それが続けば、不快を超えて今後は絶望感に陥る。「どうせ何をしても無駄」など感じてくる。結果、そうするとそんな人間に魅力を感じるわけがない。

想定外への対処ができる人は、不快に思う前にその場で解決しようと思考し始める。自分が用意しているコンティンジェンシープランを利用し、今まで反省を繰り返してきたことを思い出し、自分の脳をフル稼働させる。そうすれば概ねの問題は解決できる。

日頃の生活も「想定外」のオンパレードであって、それを不快・絶望感に浸っている人にやはり魅力を感じないだろう。そうではなく「準備し思考を巡らせ前向きに行動している人」は優しくも感じ力強さも感じる。何か価値を与えてくれそうだ、とも周りの人は感じる。

それが外見的にも醸し出し、結果、「魅力的」ということではないか、と思っている。

 

【考察】「下界の負の気持ち」もまたスパイス

山の中を歩くと気分が良い。

もちろん、冬山やアルパイン系クライミングの危険性が高い場合極端に集中しているから、気分が良い、という気持ちにならないかもしれない。どちらかというとクライマーズ・ハイだから、それを気分が良い、というのは少し違う。

でも、心地の良い青空で危険の少ない場合、山の中を歩くと気分が良い。風もまた鳥の声もまた景色もまた、気分を高揚させてくれる。一歩一歩、石を避け水たまりを避け、つまずかないように歩く。そうしていることが目の前に集中して日頃のストレスを忘れる。過去に後悔したこと、自分の人生ですら思い通りにならない辛さなど、何時しか忘れて、一歩一歩と進む。

そうしているうちに、稜線に出ると突然視界が開ける。空が自分の一部となって現れる。どういうわけが「自分」と「自然」との区別がなくなる感覚を覚えてくる。一歩一歩と進んできたおかげで、素直に環境を受け入れることができる。不思議な感情だが、それは山登りをしている登山者しかわからない、ご褒美となる。

下界の負の気持ち、「収入が減った」「学歴がどうの」「あいつは仕事ができない」「俺は情けない」「家族が重い」「後悔」、俺は俺は俺は・・・・あいつはあいつはあいつは・・・・そんな感情など起こりえない自分を少し誇らしく思えてくる。

負の感情が消えてくると、前向きな感情が現れる。自分が好きなことが明確になったり、何か新しい思いつき、仲間との笑い・・・、不思議と平和な時間が一歩一歩と進んでくる。

そして・・・・・・そういう気分の良い時間もまた終わりを告げる。

山にいつまでもいられるほど人間は強くない。「いつまでも、こうでありたいものだ」と少し寂しくも思う。それでも山から離れ下界に戻らなければならない。一歩一歩、歩くごとに、空が消え森林の中へ潜り込む。いつしか、山の中は赤くなってくる。また、一歩一歩と歩く、そうして自動車の道路が見えた途端、安堵感で一杯になる。これをよく達成感という人もいるが、少し違う。危険な山から安全な人間社会に戻ってきたというのは安堵感だろう。

あれほど下界の負の気持ちに嫌気がさしていたのに、そういう社会にまた安堵感を覚える。なんともまぁ矛盾して勝手な人間だろうか。そういう矛盾を抱えつつ、山登りをしてきた人だからこそ、これらの冒険から帰還を通じて、人間の社会の良さを再認識できる。「あー、本当は自分たちの社会は良いところが多い」と感謝できる。不満をだらだらいうだけの人間ではなくなっている。

そして、今度は「下界の負の気持ち」もまたスパイスだと前向きに思わせてくれる。一歩一歩、自分の時間を前向きに進めれるような気がする。

 

 

 

【考察】山の道具と凶器の境界

自然を対峙するために都市が作られてきたことを考えると、都市での振る舞いに注意が必要です。

山ヤ男子はよく職質されるようです。確かに、日焼けをして筋肉も発達する方が多く、また、自然を相手にしている為どことなく外見に厳しさを感じます。僕は経験はありません、たぶん、他の男性に比べて筋肉が付かず、肌も色白からでしょか。肌が弱いので紫外線で皮膚がんになる可能性が高いと昔医師から言われたことがあります。ひ弱な山ヤなのです。

そうであると、最も注意が必要なのは「刃物」です。法律的には○cm以上は銃刀法とか言われたことがありますが、結局調べてみると、「所持が正当でない刃物」はすべて犯罪になる可能性があります。従って、職質で「正当な目的がない刃物」が見つかれば、大部分は逮捕対象になります。

日本は法律が厳格であり、護身用とかは反撃するような武器は許されません。何かトラブルがあれば法のプロセスによって処理していく必要があります。正当防衛も要件が厳しく認められにくいのが現実です。

よって、登山やキャンプという明確な目的があれば「刃物」を所持できますが、帰宅して、車に乗せたまま所持の目的がないところに行くことは法的問題になります。また、「アイスクライミングのアックス」や「ピッケル」は確実に刃物です。ですから、同様注意が必要です。

さらに、「手に持っている」行為は、直ちにその武器が使える状態なので、これまた、法的トラブルになるかもしれません。例えば、登山に行くとしても「アックスを手に持って電車に乗り込む」などは直ちにその武器が使える状態なので犯罪性が帯びてきます。

ですから、
1.「登山やクライミング」の危険な道具を生活環境では所持しない。
2.「登山やクライミング」へいく場合でも法的根拠に従って所持する。
などしっかり学びたいものです。

無知はダメです。僕の経験からも「ただ登れるだけに興味がある人」はいろなトラブルを起こします。何か遊ぶ場合でも、事前にしっかり学びたいものです。そうすれば無責任にいられません、保険を掛けたり、登山計画書をきちんと作成したり、仲間に事前に注意したりできますから。